ホーリーモーターズ(過去のTweetを引用しつつ)

20131231-172028.jpgこれから発表する「2013年のベスト10!」的な記事、それぞれの作品に寸評めいた感想を書こうと思いつつ、キーパンチしていたのですが、1位に選んだ『HOLLY MOTORS』の寸評が他の順位のものに比べて、あまりにも長文になってしまったので、こちらに退避させています。
当時やっていた(今とは別アカウントの)Twitterでつぶやいたものをちょこちょこ(結構)加筆して直しただけで、恥ずかしいことに文体が普段の記事とまったく違いますし、拙いです・・・(ひどい言い訳
カラックス作品については、いつかある程度まとまったボリュームで書きたい(このブログをはじめた1番の理由!日本で唯一発行されているカラックス関連書籍があまりにも間違った記述が多いからな!)と思っているので、一時的にこういったかたちで紹介できればと思います。
かなりかっこつけて書いているので「スクリーン/虚構/身体 → 映画」とか、またまたかっこつけたタイトルでもつけてみようと。厨二感がありますな!!

では「スクリーン/虚構/身体 → 映画」
お楽しみ?ください!

ホーリーモーターズは虚構を取り扱った映画である、というのは安直過ぎるかもしれないし、あまりにも大胆すぎる見方、と言うよりは「ま、そんな一言二言で語ろうとすることが野暮っすよ」ってのが正しいのでは無いだろうか(当たり前)。

はい、今作は、監督であるレオスカラックス本人が登場するシーンを除けば、物語はドゥニラヴァン(日本語だとドニという表記が用いられているものの、denisはドゥニと読むそうなので僕は常々ドゥニラヴァンと記し、発音している)が行う「アポ」のシーンと「リムジン内」のシーンの往復で構成されている。
それぞれのシーンのつながりは「エモーショナルな映像派」と呼ばれるカラックスに相応しいさまざまな表現が常に試みられており、二重露光や、スウィング、グリッチ、さらにはサーモグラフィーを用いたシーン転換まで登場。

それらを見ているうちに「ああ、本当に俺はいまカラックスの映画を観ているんだ」という気持ちになり、目頭をおさえざせるをえない、まじで。というのはパンピーの僕らしい素直な感想だが、喉から手が出るほど待ち望んだカラックスの新作。もう少しだけ、今作について考えてみたい(考えていたい)。

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まずはじめに、カラックスは常々大きなテーマに挑戦し続ける監督だということをおさえておきたい。
アレックス3部作では「愛」
ポーラXでは「血」
TOKYO(メルド)では「交流不可能性」
などなど、人が人として生きていくうえで直面せざるを得ないテーマに挑戦し続けているのだ。そしてその作品すべて、社会的に外部とされる存在(例えば『汚れた血』では環境によって運命づけられた犯罪者が主人公であり『ポンヌフの恋人』ではホームレス)を用いて描いている。これらは疑いようのない事実。
(なぜカラックスがこういった人々を描きたがるかという点については、あまりにも長くなるし書籍に書いてあるので、ここでは割愛)

また、カラックスは作家主義の代名詞として語られる監督である。その最も大きな理由は、極めて極端かつ大胆に、身体性によって物事を語る(=ビジュアルで物事の意味を伝えることができる)という点だろう。カラックスは、とかくビビッドに身体を用いる。
例えば『汚れた血』の中でデヴィッドボウイのModern Loveをバックミュージックに“石が入っているように重たい”腹を叩きながら疾走するシーン。そして、『ポンヌフの恋人』でのドゥニによる華麗な火吹き芸。以上に共通するのは、身体の動きによる美しさはもちろんのこと、その身体によってキャラクターの想いや感情を発奮させている点だ。カラックスは、身体という言語を用いる。これこそがカラックスの最も大きな作家性といえるだろう。

ここまでに記してきたことをせいりし、カラックスは
“人が人としてまともに生きていくうえで直面せざるを得ない大きなテーマ”

“社会的に外部として扱われている立場のキャラクターによる身体を用いて”
雄弁に語る映画監督であるということがいいたい。
いわゆる“普通の人間”が生きていくうえで直面せざるをえないテーマを“社会的外部”の存在を用いて描く。この皮肉のこもったレトリケーこそがレオスカラックス1番の魅力だ。

このように過去の作品の大きな特徴を持ち出して語ると、今作は極めて異質なレオスカラックス作品として見えてくるはずだ。
今作では社会的外部の存在を描かない、と言うよりは、映画内で描かれている社会が我々の生きている世界と同一ではないのだ。これまでの作品はどれも、我々の生きている世界をベースにしている。しかし、今作はこれまでの作品に比べ、幾分ファンタジーな世界観で撮られていると言える。これまでのカラックス作品との大きな違いだ。

なぜ、カラックスは現実世界をベースに物語ることをやめたのだろうか。
それは、取り扱うテーマの変容に他ならない。今作の大きなテーマとは、スクリーンというものの虚構性である。

それを最も如実に表しているのが、物語上の2シーン目、スクリーンを見つめる観客を大きく映し出す(「群衆」や「愛、アムール」のような感じです)。そこから3シーン目へと場面はスムーズに展開し「アポ」を行っているドゥニラヴァンをカメラはそのまま映し出し、物語が駆動しはじめる。このシーンに他ならない。
僕たちが現実でスクリーンを見つめているのと同じように、映画内の観客(虚)もスクリーンを見つめている。
つまり、“現実世界の観客”と“映画内の観客”。それぞれが、同じ対象を見ているかのように操作が行われるのだ。
この時点でカラックスは今作の最大のテーマ「スクリーンという虚構」であることをわかりやすすぎるほど、わかりやすく、はっきりと指し示している。

さて、話は物語から一気に飛び、突拍子もなく記すが、映画は映画としてパッケージングされている時点で「虚構性」から逃走することは不可能であることは否定のしようがない事実だろう。

今作「HOLY MOTORS」は「映画という虚構」の中に、更に「アポ」と呼ばれる、映画内でのさまざまな演技によって、さらなる「虚構」をつくり出している。つまり、虚構のレイヤーを1層積み重ねているということだ。
それにより、現実に映画を観ている僕たち観客は「虚」と「虚の中の虚」とい2層の構造を、1枚のスクリーンのうえに見出すこととなる。

これは“「虚構性」から逃走することは不可能”である、という映画(=作品)のもつ、ある側面でのジャンル的限界を「直接逆説的」に利用していると言えるだろう。蛇足ながら、それを「間接逆説的」に利用しているのが、「オフサイドガールズ」や「これは映画ではない」などのジャファール・パナヒの一連の作品群や、「世界残酷物語」を代表としたヤコペッティのモキュメンタリー。そして、映画の虚構性という限界に限りなく挑発的な態度で臨んだ監督が「鉄西区」における王兵だと考えている。

例に挙げた3人の監督が、映画史においてターニングポイントとなる、重要な足跡残していることは、紛れもない事実だといって差し支えないだろう。
コンセプチュアルアートを発明したマルセルデュシャンや、ジャズをポップスにまで発展させる足がかりをつくったマイルスデイビスなどを遡れば自明であるように、映画に限らず「作品の歴史」において重要な足跡は“ジャンルの限界にどのように臨んだか”が非常に重要なポイントとなる。
その点において、今作は間違いなく歴史的賛辞を受けるべき傑作だ。

はじめに少し書きましたが、最後に忘れてはいけない点をひとつ。
カラックスは、ジャンルの限界に挑戦した作品を作りあげたことはもちろん、それを彼の作家性の礎とも言える身体性を存分に利用してつくりあげているのだ。
最新作である今作、ドゥニは明らかに老けているが、これまで以上に身体を動かし続ける。
これを傑作と言わずして、なにを傑作と言うのが、カラックスを稀代の映画監督と呼ばずしてなんと呼ぶのか、僕にはわからない。

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